<参拝方法は大事? 参拝法の実態について
今回も読者から寄せられる質問を扱います。
それは「参拝法について」です。
たとえば伊勢神宮では、まず下宮に参拝してから内宮へ参拝するなどの暗黙のルールがあり普通は二礼二拍手一礼が出雲大社は二礼四拍手一礼だったりもします。
それら参拝法の形成には諸説あり、厳密に守ること良しと主張する一派もあります。よって、「ちゃんと守るべきですか?」という心配からの質問が多々あります。
もし心配の動機が「守るか否かで『ご利益』に影響があるかもしれないから」という場合、その真実はまったく別の話しになるので、今回は参拝についての基礎観念について扱います。
さて、仮に二礼二拍手一礼せずに参拝した場合、どうなるのでしょうか?
ここでよく出てくるのが「神様に失礼だ」「祈願が通らないから」といった抽象論になります。実に日本人らしい理由です。
では逆に、悪人が二礼二拍手一礼すれば、儀礼が優先され実態は関係なくなるのでしょうか?
そうなると、「神様はすべてを見通しているから隠せない」という理屈が展開されます。だったら、そもそも参拝法など関係なくなってしまいます。
つまりは、すべて相対的な問題であるということです。
ちなみに、二礼二拍手一礼の理由は「とりあえず参拝法を決めときましょうか」という官僚らしいルール作りの結果であり、「最初に下宮、その後に内宮へ」という順番の理由は、どちらにも平等に収益が出るためです。出雲大社が二礼四拍手一礼なのはオリジナルのブランディング化のためです。三拍手や五拍手を参拝法とするところもありますが、それも同じ理由です。
もし仮に一定の参拝法が大事ならば、「うちは違います」とは言えないはずで、変化がある時点で「相対的」なわけです。
よって、何事も厳密である必要はありませんし心配する必要もありません。
特定の参拝法を守ることが気持ちよいならばそれで「良し」ですし、無理に「私は気にしないよ!」と主張する必要もありません。たとえばスケジュール的に「下宮には行けず内宮しか寄れない」という時もあるでしょう。だったらそれで良いわけです。
スピリチュアルの落とし穴は「いちいち厳密化すること」ですが、すべてはエネルギーの流れとバランスの問題であることだけを意識していれば問題ありません。言い換えれば「気持ちが良いこと」が大切です。逆に、「ルールありき」を主張する霊能には注意しましょう。
ちなみに、私は参拝するとき「二礼二拍手一礼」はしません。
それが心地よいからです。
それで困ったことは一度もありません。